2021年3月16日火曜日
絆プロジェクト67日目 スプーン
2011年3月11日、中学1年生の終わり頃、卒業式の前日。
放課後に、友だちや担任の先生とストーブにあたりながら話していたときのことです。
突然、ドンと強い揺れが来ました。机の下に避難するよう先生に言われ、何が何だか分からず机の下へ。
ストーブの上にある蒸発皿の水がバシャバシャとこぼれているのが見えました。
「校庭に避難しろー!!」と声が聞こえ、校庭に向かいました。
突然のことに泣いている友達もいました。
その後、解散して下校したと思いますが、どのように帰ったか覚えていません。
停電になり、電気が使えない生活がしばらく続きました。
夜空の星がいつも以上に見えてきれいだったこと。
信号が光っていないこと。
ガソリンが入れられないため、道路に車があまり走らず日中も静かだったこと。
雲一つない青空の下、雪が反射してまぶしい中、沿岸の被災地への支援物資(着ない服や使わない学習道具)を学校に届けたこと。
ガスと水道は使えたので、お湯を台所で沸かしそれを浴槽まで何往復もして、浴槽にためてお風呂に入ったこと。
震災直後のことはあまりよく覚えていませんが、いつもと違うこういう場面はよく覚えています。
1週間ほどたって、日中に電気が戻りました。これから少しずつ、内陸の私たちには日常が戻ってきました。
タクシードライバーをしている父は、首都圏から取材に来た人たちを沿岸まで送ったり、迎えに行ったりと、震災直後、休みもないほど大忙しでした。
沿岸に行っていた父から
「町がなくなっていたよ。がれきがたくさんある。とにかく昔の面影はない。」
とだけ聞いていた私は沿岸がどんな様子なのか、津波がどこまで被害をもたらしたか、テレビで見たようにしか想像できませんでした。
震災から2か月半ほどたったある日、父が私たち家族を沿岸に連れて行ってくれると言い出しました。
久しぶりのお出かけ気分。沿岸までの約2時間の道のりを姉弟でしりとりやゲームをしながら過ごしました。
が、だんだんと海に近づくにつれて草木が枯れていたり、家が壊れていたり、「いつもと違う」感じがしました。
あるところを境にニュースで見たようながれきだらけの光景が広がっていました。
よく刺身を買いに来ていた魚屋さんも、おやつを買ったコンビニも、たくさんの家も全部なくなっていました。
「これでもがれきが所々に集めてよくなった方だ。」と父は言っていました。
車を停めて、実際に「町だった場所」を歩きました。
「ただの汚いどろんこの道を歩いているんだ」「ここに家があったなんて嘘で初めからこうだったんだ」と思いながら歩いていましたが、
ふと地面に目をやると、どの家庭にもよくある、金属のスプーンが落ちていました。
「ここに生活があった」
ということを訴えかけているようでした。
怖くなって、
申し訳なくなって、
つらくなって目をそらしました。
この「ただのスプーン」を私は忘れられません。
たくさんの人を巻き込んだ地震、津波。
「いくら、建物が、町が、元通りになったって、あの時の苦しみ、悲しみ、大切な人を失ったつらさはなくならない。
けど同じことを繰り返さないように、多くの人にこのことを伝えていきたい。」
と震災当時、沿岸の小学校で校長をしていた大学の教授が話していました。
突然予想もしていなかったようなことが起こりうること、
日常なくなってしまうこと、命があることは決して当たり前ではないこと、
たくさんのことを考えさせられる出来事です。
そういうことがあるからこそ、
毎日を大切に、
周りの人、家族・友人を大切に、
そして自分を大切にしていきたいですね。
岩手県出身、2年2組担任でした!
次は誰かな~?